思い出すまま / Virginia Woolf (覚書)

人と人との間の、相互の影響の機微をつぶさに観察した記述だと感じた。人を深く理解する能力、その間を取り持つ能力、彼ら彼女らを繋げ和する能力、また彼彼女を癒し内に負った傷を治癒する能力に主眼を据え、その任を負い気丈に振る舞う女性たちの姿とその心情の移り変わりを写し取っている。また中心の家族の家族史を回想するという形を採って、その中でその運命に翻弄され、またそれを紡いできた人物の運命、彼彼女らに降りかかった親しい人の死という不幸、運命の不条理さ、そしてそれを如何に克服してきたのかという人物たちの逞しさが読み取れた。性格・性質と責任に因果を見出し、それを人物に対する一つの評価軸としているところ、またそれがかなり強力に機能しているところが印象的だった。森鴎外の「舞姫」での豊太郎という「日本人」が挑戦し挫折したあの評価軸、価値観だ。

夏目漱石は「吾輩は猫である」で西洋由来の個人主義と日本の伝統的な家族主義的な価値観の二項図式を作って対比・批評しているが、1900年前後のイギリスでは個人主義がある程度巧く機能していたことが伺える。もっとも漱石自身も「三四郎」でその塩梅の良さに言及している。男女ともに個人主義的な価値観を持ちそれを実行しつつも他者から影響されることを悪しとせず受け入れ、必要なものとして捉えている。ウルフがこれを価値あるものとして取り挙げただけなのか世間一般がそう考えていたのかは判然としないが、私としては意味ある発見に思えた。

この書自体の感想・発見とは関係ないが「燈台へ」の登場人物に酷似する人物が多く出てきており、読み深める参考になる書だと思う。「燈台へ」を読む前後に読むと、見えてくることもあるかもしれない。

投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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