Endless Night / Agatha Cristie

犯罪的な、あまりに犯罪的な作品だった。物語は、主人公マイクが彼自身の物語を回想し、その発端が何だったのか考える場面から始まる…。


タイトル:「いかにも」

男と女がいる。欲望がある。一方が大金を持っている。


彼は金持ちではないが、旺盛な野心がある。それまで母親の厳しい教育によって抑えられていた野心、情動、自立した後はそれらを抑えるものがなくなる。放浪の時を過ごす。そして運命の出会い。

ひっそりとした丘、その表面にゆるゆると伸びる道。青年が急な曲がり角を曲がる。ロマンチックな場所の、ロマンチックな出会い。


2人は互いに惹かれあう。


一方は、純情な、うぶな娘。箱入り娘は突然の外界の流入にさぞときめいたことだろう。もう一方は、貧しく生まれ、捻じ曲げられてはいない、庶民的な感性、若い感性を持った青年。彼らは出会い、話す。2人して歩き、互いに相手をチラリと盗み見る。


そして結ばれる。


彼らは自分たちを「私たち」と呼ぶようになり、電撃的に結婚する。周りには知らせず、こっそりと。若気の至り、若さゆえの特権。その衝撃、周りへの波及。押し寄せる金持ち連。耐え忍ぶ時。そして、嵐は去る。


幸せなひと時。


それで話が済むわけではない。それでは犯罪小説たり得ない。無論人は死ぬ。しかし話が進んでいき不審な死体が発見されながらも、不穏な時がただ過ぎてゆく。そうであるのに左手の内に残るページはあとわずか。こんなありきたりで陳腐で物事がうまく進み過ぎては、クリスティーらしくない。


ある時、持っていない方の背に回した手に殺意が握られている。スッとその手を前へ。相手は青くなる。殺気が火を噴く。


310ページから突如マイクが気が触れたようなことを喋り出す。陳腐さが吹き飛び、異様さに置き換わる。理解不可能な彼の心象、考え、行動。このグロテスクが、ストーリーの急旋回の前後のギャップによって強調的に目前に現前し、居座る。この展開、この質感、このギャップ、この異様さ。あゝ、なんて犯罪的なんだろう!

終わりなき夜(Endless Night)という題名はニコラス・レイの「夜の人々」を連想させる。この映画の「夜」は犯罪者の世界、犯罪者が生きる時間であり空間だ。このクリスティーの作品でも同様だろう。マイクは終わりなき夜に生まれついた。母親はそれを知っていた。エリーも言った。「愛してるみたいに…」。サントリックスも言った「どうして別の道を…」。それでも彼はその道を行ってしまった。彼は、生まれ持っての、宿命的な犯罪者だったのだ。この宿命性、それが呼ぶ悲劇性、そして「我が終わりに我が始めあり」― 物語は最後まで進むとまた最初に戻る ― という悪循環性が、この小説をさらに犯罪的たらしめる。クリスティーは「ABC殺人事件」で犯罪とはスポーツだと言っている。スポーツ、つまり時折楽しむ健康的な遊戯、友人と楽しむ一種のコミュニケーションだと言っているのだ。しかしここでは、犯罪的な何かが「何か」であることをやめ、名詞から独立して「犯罪的」という形容詞それ自体として立ち上がり、「犯罪的」は生き物になっている。もはやクリスティーの掌の上のものではありえない。



ある時、持っていない方の背に回した手に殺意が握られている。スッとその手を前へ。相手は青くなる。殺気が火を噴く。


また彼女の女性的な情動に私はとても感動した。ただそれには少々異様さが加味されているかもしれない。この作品全編に渡って、特に最後の急展開に私はそれを見出した。そこにある彼が吸った空気、吐いた空気、グレタが吸った空気、吐いた空気、彼らの周りの家具、壁に掛けられた絵画、彼らが住まう屋敷、それが建つ丘、その木々、木々が吐吞する空気、空、時刻、その全てによる何か。そしてさらにそれを包摂するものがある…。彼女の哀れみ。そして慈しみ。

夜ごと朝ごと
みじめに生まれつく人もいれば
朝ごと夜ごと
甘やかな喜びに生まれつく人もいる
甘やかな喜びに生まれつく人もいれば
終わりなき世に生まれつく人もいる

ウィリアム・ブレイク, 「無垢の予兆」

私はこの詩を、クリスティーから犯罪的への哀れみと解した。彼女は自らの手で彼を生んでおきながら、必ず終わりなき夜の腕に彼を預ける。抱きかかえられた彼はいつも登場人物たちに不幸をもたらす。誰かが殺し、誰かが死に、誰かが悲しむ。エリーにはマイクが見えなかった。犯罪者は見えないのだ。なぜなら夜の闇に侵されて自身も闇になってしまうからだ。彼はマイクに自らを注ぎ込み、マイクという人の形をとって健気に生みの親に訴えかける。だが彼女は残酷だ。一篇の詩のベッドで彼を慈しみ哀れんでおきながら、チャンスを与えておいて突き落とし、彼に彼の変わることのない本質、絞殺の至福を彼の肉体を通してその内に湧きあがらせ ― そのやり方のなんと非情なことが!彼の肉体を使って、内発的なものとして彼に感じさせるのだから。彼はその惨さをまざまざと感じたに違いない ― そして彼は最後には抵抗の気力さえ失う。彼はその暗鬱な、そして絶対的な不変の運命を思い知る。そして終わりなき夜の人であり続け、そしてその宿命に混迷の中で従い続ける。この小説は、「犯罪的」という生き物の、愛撫され戯れ長年連れ添われてきたクリスティーに対しての控えめな訴え、そしてその2人の、少し捻じ曲がった、だが思慕のこもった語らいではないだろうか。

彼女は後悔しているのだろうか?悲しんでいるのだろうか?はたまた戯れ楽しんでいるのか?

私は、それらの混じり合った、カオスのような、異様な情動を感じる。この情動をなんと言うべきか………?

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彼女のその情動が、そう、彼女こそが、何よりも犯罪的な、あまりにも犯罪的な存在だったのだ…………………………………………………………………………………………………………………………………………………

投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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