カリガリ博士 / ロベルト・ウィーネ(覚書き)

非常に完成度が高い作品だと思った。ラングの「マブゼ博士の千の眼」や、カール・ドライヤーの「ヴァンパイア」を思わせる。アメリカのようなストーリーの持っていき方は獲得しておらず、定速で進行してゆく点はまだ発展段階にいることを感じさせるものの、文脈のついた絵画とでもいうような画面で、背景の絵画に俳優が見事にピタリとはまってゆく様はそのまぎれもない洗練度の高さを示している。画面の少々陰鬱でヒステリックな雰囲気をつくりだしている背景はかなり歪んだ、奇怪なものとなっているが、淀川長治氏が述べている通り映画が「生きている」。俳優の演技が自然な、「リアルな」ものとして生き生きと画面上に映し出されるのだ。ヴェルナー・クラウスは丸三角四角の幾何学的な形を据えた醜い顔、加えてあの薄汚れたコートと背の曲がったよろめく歩き方によってなんともおぞましい。コンラート・ファイトも蒼白で病的な顔と奇妙な衣服によって幽霊のような冷たさを獲得している。ウェルズやキートンをはじめとしてジャン・ピエール・レオー、ディートリッヒ、ロミー・シュナイダー、ベティ・デイヴィス、アグネス・ムーアヘッド、ユーリー・アレクセーヴィチ・ツリロ等は類まれなる天才的な俳優だと思うが、その所以は画面に登場したときによ明らかになる。登場したその瞬間に画面の雰囲気を変えてしまうのだ。カリガリ博士のこれらの俳優たちも、彼らには及ばないまでも、なかなかのインパクトを有していると思う。また回想形式で語られながら、最後には記憶が現実に侵入し、そしてそれを見ている我々観客の現実にまで拡張してくる構造もなかなか興味深い。現実と脳内映像の境を排した、映画の可能性を十全に引き出した素晴らしい作品だと感じた。

評価 :4/5。
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Blog Circle’s ブロトピ

投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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