ベルモントはサツを一人殺す。発端は、取るに足らないこと、ベルモントがスピード違反か何かをしたことだ。これでベルモントは法の外に出た。社会の外に出た。「ピエロ」の芽生えである。
ゴダールはうなじが好きな人なのだろう。車でパリの街を走るシーン、絶えずセバーグのうなじが映っている。カメラを斜め後ろに据えて、ジャンプショットを挟みながら同じアングルでそのうなじをひたすら撮り続ける。セバーグはときたま振り向きベルモントと話すが、その時の見え方の変わる様を、こんなにも魅惑的に撮る監督が他にいるだろうか?
ジャン=ポール・ベルモントは金集めに奔走するさなか、仲間とこんなやり取りをする。「ボブは?」「ダメだ、あいつは牢屋だ。」賭博師ボブあの後はサツに捕まってしまったようだ。ベルモントはボブのいない中映画の主役を演ずる。唇を親指でなぞる。ボガード、ボブの次の主役、つまり現代において、映画の歴史を背後に感じ、またそれを紡ぐ人間というわけだ。
ジーン・セバーグは始終ベルモント=映画と如何に付き合うのか、悩んでいる。
ジャン=ピエール・メルヴィルは、たくさんの記者に囲まれ、いろいろな質問を受ける。それは、どれも重要な質問である。映画の中で人物は如何に振る舞うのか。どのような性格や人格を持つのか。そして彼はそれらに答えている。従って、彼は映画である。
メルヴィルは言う。セバーグ、つまりゴダールの役割は、有る。このとき、彼らは、映画であるメルヴィルに対して、ポスト・シネマの世代である。そしてメルヴィル=映画は言う、人生最大の野心は「不老不死になって死ぬ」ことだ、と。前者を聞いた時、彼女は微笑み、理解する。しかし後者の時は、彼女の表情は曇る。悩みは終わらない。ベルモントを愛するがゆえに。
この映画を撮影している張本人たるゴダールは、逃走中のベルモントを見つけサツに通報する。ベルモント=映画殺しに加担するのである。
ベルモントは投げ渡された銃を手に取り、地面から持ち上げる。これによって、彼は撃たれる。
映画は自殺しようとしている。
ベルモントは逃走する、映画は逃走する、ヨロヨロと、フラフラと、時折こけそうになりながら、ベルモントは走る、映画は走る、右によろめき、左によろめき、ベルモントは走る、映画は走る、カメラは後ろからそれをゆっくりと追う、映画はその死に様をスクリーンに映し出す、ベルモントの目の前には車が右から左から走る通りである、映画の目前は車が往来する現在である、それを前にして彼は倒れる、映画は力尽きる、セバーグは彼を、愛した人を、映画を追いかける、駆け寄って傍らに立つ、彼は、最後に、ゆっくりと、弱々しく、しかしどうでもよさそうに、勝手にしやがれ!と仏頂面する、映画は仏頂面する、そして言う、「ウンザリだ」。
セバーグの部屋で、彼らは話した。
彼女は子を孕んだことを告げる。恐らくベルモントとの間にできた子だという。それに対するベルモントの態度は冷たい。「もっと気をつけろよ。」それ以上は特に何も言わない。
他のことも話した。彼女は美しいか、醜いか?フランス人(=ベルモント)は違うことを同じだというのね。
悲嘆か、無か?ベルモントは無だと言った。悲嘆は中地半端だと。セバーグは目をつぶって言った。真っ暗(=無)にはならないわ。
映画の魅惑は形容詞を超越したところにある。
ロッセリーニの生々しい痛々しさ、ルノワールのたまらない軽薄さと幸福、メルヴィルの厳しさと粋。
この映画のベルモントはどうにも身勝手で頼りない。
かわいい女がいる街は、完璧な女がいる街じゃない。という作中の言葉が示すように、いやそれにしても程遠いが、彼は完ぺきではない。しかし、だからこそ魅力的だ。
ラウル・クタールの映し出す豊かな ー 私は日本人、特にボキャ貧の最近の若者が何に対しも使う「お洒落」はあまりに低俗になり過ぎているのでこの言葉は避ける ー 画面は、部屋の中に「生活」を見出す。ヨーロッパ・日本の映画とアメリカの映画の差異はこの「生活」の有無だと思うが、前者ではサスペンスでも、ギャング映画でも、アヴァンギャルドな作品の中にも、必ず「生活」がある。クタールのカメラは、特にドゥミの「ローラ」などを見ていただければ一目瞭然だと思うが、「生活」をリアルに映し出す。文化の滲んだこの「生活」の存在は映画にその国の文化をもたらし、映画をより豊かなものにする。彼のカメラが映し出すセバーグとベルモントの戯れは、なんとも邪気がなく、それでいて品は失わず、豊かだ。今では得がたいほどに、豊かだ。
メルヴィルは、「現代においても愛は信じる。だが男女の間の溝は深まった。」と言った。これにはゴダールの「αヴィル」が答えている。あの映画では、愛の無い「αヴィル」から、地球から来た男が未だ愛を失わずにいたアンナ・カリーナを助け出し、愛を悟らせる。しかし、その「αヴィル」はパリの街である。「現代では深まった男女の溝」のさらなる深まりとその消滅を、架空のこととして描いている。ここから読み取れるのは、ゴダールの、映画亡き世界への、豊かさの欠乏への憂いである。
カメラは死の前夜、ベルモントの顔をアップで捉える。画面の真ん中に彼の顔が映し出され、画面の左の端の方に横向きに、彼は煙草を吸いながら上を向いている。その顔は、フッと抜けたような、「勝手にしやがれ」な表情を、否、私の筆舌には尽くし得ない、尽くせるはずのない表情をしている。
翌朝、セバーグは彼を密告する。
気が狂ったのか⁉ーううん、正気だわ。
俺が気が狂ったんだ。
死期を目前にした、この映画の、なんという豊かさよ。
セバーグの部屋で彼は言う。
滑った!
死刑囚の話は知ってるか?死刑台に登りながら彼は滑った。で、言った、「やっぱりな!」
やっぱり、死んじまった!
但し、銃で背を撃たれて、死んじまった。殺されたのだ。追い詰めたのは、非映画と、監督とセバーグだ。彼らが殺したのだ。役割は果たされた。メルヴィル、映画の夢は果たされた。
彼は死に際、ゆっくりと、弱々しく、しかしどうでもよさそうに、勝手にしやがれ!と仏頂面する、映画は仏頂面する、そして言う、「ウンザリだ」。
彼は非映画に追い詰められる。古い建物が建つ中の新しい建物を見て、こいつが建ったせいで景色が台無しだ、と言う。彼が好きな曲は、最後に出てきたクラリネットの協奏曲だ。それ以外は嫌いだという。山が嫌いなら、海が嫌いなら、街が嫌いなら、ー
2人で逃走中に、こんな科白がある。
危険も感動もない愛は昇華された!
しかしメルヴィル=映画は言っていた。
現代においても愛は信じる。だが男女の間の溝は深まった。
セバーグは自分の部屋で言った。
何を考えてる?ーそれが分からないから悩んでるのよ。愛してるわ、でも愛するのが怖いわ。彼女は男=ベルモント=映画からの自立を目指している。記者の男を振ってベルモントと共に逃避行をするが、セバーグも、最後にはサツに通報する。
ー 勝手にしやがれ!
そして言う、あなたにひどい仕打ちをしたのよ、だから愛しているとは言えないわ。そしてセバーグは、ポスト・シネマは無表情になる。邪気の無さがフッと消える。唇を親指で頑是なくなぞり、言う。ウンザリって、どういうこと?わかんないわ。彼女の表情は戻らない。セバーグは「破滅に向かう一人の男に惚れた一人の女」にはなり切れなかった。そしてベルモントの子はまだ生まれていない。
〔蜜柑〕
個人的に書ききれなかったという不全感が残るので、未完とさせていただきます。また再鑑賞したときに加筆、もしくは新しく記事を書こうと思います。今回は粗削りの、とりあえずの一本ということでご容赦ください。