気狂いピエロ / ジャン=リュック・ゴダール

サミュエル・フラーは「映画とは戦争だ」と言う。そしてその夜、戦争が始まる。ジャン=ポール・ベルモントとアンナ・カリーナはベルモントの屋敷を飛び出し、夜の道を走る。花火が上がり、火花が散り、轟音が響く。戦争が、映画が始まったのである。だが始まるはずである。「破滅に向かう一人の男」と「破滅に向かう一人の男に惚れた一人の女」がいれば、始まらないはずがないからである。「拳銃魔」も、「暗黒街の弾痕」も、「ハイシエラ」もそうだったではないか。スクリーンの上では、女は破滅する男に燦然と輝く生を見出すのだ。が、スクリーンの中で男が破滅に突っ走る要因は、ファムファタールに出会ったことが引き金になっているように思う。今回も、アンナ・カリーナがその伏した瞳を挙げた瞬間、それが映画の始まりである。

翌朝、2人はカリーナの自宅にいる。真っ白な壁、パラパラと置かれた家具。部屋の角に置かれたベッドにはベルモントが赤ん坊のような姿勢で寝ている。そこにカリーナの声。「目覚めよ、死者たちよ!」人間の世界で死者と化した人間たちよ、目覚めよ!と呼びかけるのである。隣の部屋には一体の男の死体があり、首には鋏が突き刺さり、血がベトベトと服についている。カリーナが殺したのだが、これで2人は晴れて完全に法外の世界に飛び出た、正確に言うならばカリーナが連れ出したのである。その世界ではベルモントはまだただの赤ん坊に過ぎない。対照的に、アンナ・カリーナはすでに起きていて朝食をつくっている。そしてベルモントのいる部屋に来ると朝食の載った盆をベッドに座ったベルモントの足の上においてやる。薄い水色のバスローブを羽織っただけの彼女は、一歩ベッドから退くと、白い壁にもたれてベルモントを見る。カメラは正面に据えられたままで、カリーナの横を向いて筋の張った首筋を映し出す。それはやわらかに、しっとりとして、もろく、つまり生をもって見える。ゴダールはいつも女優の首を撮る。そして、毎度それは美しく魅力的に映る。またこのシーンを見れば分かるように、アメリカの映画とは違い、日本やフランスの映画には生活が必ず入り込む。このシーンも朝のすがすがしさと朝日のように爽やかさな雰囲気が画面に漂っている。それまで静かで大人しかったカリーナは、この朝から、抑えられない何かを感じるかのように、何かの始まりを感じているかのように、これから起こることに期待し待ちきれないかのように、生き生きし始める。法の外に男を連れ出し、その「破滅に向かう男」と送るこれからの日々の快楽が、自らの生きがいだとでもいうかのように。


カリーナの夫が部屋に来て、2人して彼を殺して車で出発まするまでが映される。ピンク色でフリルまでついたかわいらしい衣装のカリーナを映した、何か愛国心を誘うかのような ー ただしアイロニカルに ー ショットが鮮やかに映される ー それもまったく科白に頼らず映像だけでだ。バルコニーに出た彼女は手すりのところまで駆け寄り、サッと辺りを見渡す。それをカメラが彼女の後ろをグル~と回りながら撮影するが、彼女の向こう側には建物の屋上と空しか見えない。中央に立つ彼女の態度は決然としている ー 法外の世界への船出に向けて。この、戦場を見渡し今からそこへ向かうかのようなショットは、彼女の遊戯の始まりを宣言するのである。

車を証拠隠滅のために爆発させる。その後カメラが引くと、そこが草原にポツンとある、道端の高速道路の断片の高架下であったことがわかる。そこから火の手がのぼり、煙がもうもうと立ち上っており、まるで戦地かどこかのように見える。2人はその草原を奥へ向かって歩いてゆくがその空には爆発で起こった煙がたなびいている。あまりにも鮮やかな皮肉に驚嘆する。

2人は河を渡る。ベルモントはカリーナの手を引き、アンナ・カリーナはぬいぐるみを右手で振り回している。2人は真っ直ぐ進んでゆき、次第に深みにはまってゆく。腰まで水につかり始めたところでベルモントが強引に進路を変えて岸へ向かう。映画の結末はこうはならなかったが。

2人はガソリンスタンドでフォードを見つける。シルバーの塗装が施され、内側はドぎつい血のような赤に塗られている。2人はこのフォードを盗むことに決め、小走りに ー カリーナは鬱憤のたまった子供のようにして ー 近寄る。フォードの持ち主がトイレに行った隙に、スタッフに金を握らせてジャッキで持ち上げられた車を降ろさせる。その際ベルモントが車の台座を右に回すのだが、回しているときだけ、流麗なクラッシックが流れる。回すのを止めてスタッフと話す際にはピタッと止む。あれだけブツ切りにしているのに、画面の雰囲気はこの差異によって鮮やかに切り変わる。音楽がかかると逃避行モノのワンシーンの如き雰囲気が甘くしっとりと漂い、切れた瞬間に元の粗い雰囲気に一瞬にして戻る。ゴダールのモンタージュと映像そのものの撮り方の感覚は、比肩できぬほど天才的だ。


画面の下には砂浜が映り、それ以外は一面の海と地平線。内側の赤いシルバーのフォードは二人を乗せて画面右下から斜めに突っ込む。青い空・青い海にシルバーとドぎつい赤、そして高くやわらかに立ち上がる白い水しぶき。これ以上ない開放感が画面を満たし、その端の無い無限の広がりはスクリーンを越えて広がる。この水しぶきは他の監督では在り得なかろう。こんなにも包み込むようにやわらかい水しぶきは私は見たことがない。ワッと立ち上がったと思うと、少し間をあけてフワッと水が海に戻る、その水音がバラバラと聞こえてくる。そして2人は車を降り、鞄を頭の上に載せて、それまでの画面の緊張のない、何事もなかったかのような自然の静けさの中、ザブザブと歩き始めるのだ。人間の街の緊張があの水しぶきと共に一瞬にして吹き飛ばされ、それを境に画面の印象が一瞬にして変るのである。そして次に画面に降り立つのは、のどかな、海と地平線の穏やかな世界なのである。私はこの水しぶきを愛する。


その夜、2人は2匹の動物の如く丸まって寝ている。ふと目を覚ますと、月が出ている。月は逃げているんだとベルモントは言う。まずソ連の人間が来て、アメリカの人間が来て、最初は話し相手ができて嬉しかったけど、自分の思想や文化を押し付けてくる双方に辟易して逃げて来たんだ、君の所に…。

暑く気怠い海辺での生活が始まって数日の後、アンナ・カリーナは「私に何ができるの?」と駄々をこねるように海に石を投げながら言い続ける。「破滅に向かう一人の男」から社会について考える迷える男になってしまったベルモントに辟易しだしたのである。彼女は「破滅に向かう一人の男に惚れた一人の女」なのである。社会考察を行う男に恋する女ではない。破滅という死の断崖の淵を疾走する男の、死に触れて輝く生と戯れそれを吸い取ることに魅せられた女なのである。

アンナ・カリーナの服は、海辺のシーンの終わり、灌木の中を踊り駆けるシーンに向けて、その赤さを増してゆく。Tシャツから始まって赤と白の横縞、そして真っ赤なワンピースへ。このシーンでは、映画の中で血を思わせる色の、あの真っ赤なワンピースを身に着け、全身から発散される美しく狂おしい血の気配、死の気配と、それが生む輝かしい生、あまりに輝かしい生とその彼女の生き生きとした様、これらそれぞれの、またそのはざまの絶え間ない緊張と、その裏腹の、クマのぬいぐるみを振り回しながらベルモントの周りをクルクルと嬉々として「小鳥のように」歌い、踊り、跳ね、駆ける様の一見の無邪気さ、この相反する二つの緊張の共存が生む更なる緊張を前にし身動きを禁じられた観客に、彼女の死というエロティックな魅惑、加えてそれを望む気持ちが心の内に芽生えた瞬間の、その後ろめたさゆえに心を掻き乱され、彼女の元気いっぱいの溌溂としたアクションそのもののエロティックさが画面いっぱいに拡がって、更にその心を掻き乱し、このカオスと化した、あまりに浮足立ちはち切れんばかりになった自らの心に耐えられずにもがく観客は、必ずや気も狂わんばかりになる。

嬉々として死の影と戯れる彼女の姿は途方もなく魅惑的で、これ以上ないほど生き生きとして、生を全身に感じ発散させている。いや、違う、死と戯れているからこそ彼女はこれ以上ないほど生を感じ、それを画面いっぱいに発散し、それゆえに嬉々としていて、それがゆえに観る者を魅惑して止まないのだ。そしてこの、決して逃れ得ない堪らない魅惑、有無を言わせぬこの魅惑に、心臓を鷲掴みにされ身体を包み込まれることは至上の幸福である。この幸福に浴することのできた選ばれし人間は生涯この幸福を忘れ得ない、否、その心臓は鷲掴みにされたままこの映画のためのものとして、そのためだけにのみ鼓動を打ち続けることだろう。

なぜ彼女はこんなにも生き生きとしているのだろうか。「破滅へ向かう一人の男に惚れた一人の女」に戻ったからだ。ベルモントは死の影を感じると元気がなくなり、最後はアンナ・カリーナに引っ張られるも同然であるが、反対に、彼女はますます溌溂と、ベルモントの生気を吸い取ってますます生き生きとしてくる。ベルモント(男)に対して、アンナ・カリーナ(女)は死の影を感じることで、その際(きわ)で煌めく生の刹那の輝き、ギラつきに恍惚とし、取りつかれ、そのエネルギーを我がものとして振る舞うのである。その拡がりは留まるところを知らない。スクリーンの上のベルモントの生気を吸い取るに留まらず、スクリーンを飛び出して、嬉々として、観る者の心まで我がものとし弄んでしまうのだから。


金を稼ぐシーン。指に摘まんだ火のついたマッチ、炎、「Yerh」を連呼するアメリカ人、顔を黄色く塗ったカリーナ、銃を乱発するベルモント、これらのモンタージュの生みだす激烈な効果は凄まじい。このほんの一瞬のショットだけでよくぞというほどの鋭すぎる切れ味があり、そしてなによりあまりにも鮮やかである。

その後、ダンスホールに行くか行かないかでカリーナとベルモントはもめる。結局ベルモントはたったとどこかへ行ってしまい、カリーナのアップショットに切り替わる。強い日差しに目を細め、髪が風に吹かれてなびき、ドキュメンタリーのワンシーンのような趣で映された彼女は、カメラに向かってため息をつくように、しかししっかりとした口調で「彼には分からないわ」と話す。ベルモントには、死と生の際(きわ)を疾走する、気狂いじみた、但し自然な愉悦が解せないのである。


前に述べた血と死の緊張は、ベランダのジミー・カルービとのシーンで現実に肉薄する。銃を悠然と構えるカルービと、鋏を手すりに突き立てるカリーナ。時折彼女はその鋏を右手に握り、カルービの方を顧みる。滾る血のように真っ赤なワンピース、その白い縁取りの襟の真ん中、胸の上には桃色のバラ、髪の中の下向きの顔から、キッと睨んだ両の瞳。この画の遊戯の中の緊迫たるや。

もはやカリーナの行動は全く読めなくなる。それもそのはず、あれだけベルモントの生気を思う存分吸い取ったのだ。逆にベルモントはもはやカリーナに引っ張りまわされ振り回されるばかりである。引っ張られるままにマンションに入り独りボコられ、置き去りにされる。しかしこのシーンを支配しているのもまたカリーナである。部屋に入るとカリーナが来ていた赤いワンピースが無造作に置かれている。脱ぎ捨てたことを想像させるこのワンピースが、画面にエロティックな緊張を生む。ベルモントは拷問される際、頭にこのワンピースを被らされる。カリーナがいた場所に首を突っ込んでみるわけだが、もうそこに彼女はおらず、ただ独り虚しくかけられる水に咽ぶばかり。存在しない彼女の身体が、やはりそれでもこの画面を支配しているのだ。ベルモントは振り回されているのである。

次に海辺でケロッとした彼女に再開する。ますます読めなくなった彼女はもはやベルモントを弄んで嬉々としている。この後2人は船に乗って移動することに決めるが、ベルモントは再び引っ張りまわされ、振り回され、弄ばれて置き去りにされる。

金のために犯罪に加担して、2人は指示された通り行動する。カリーナはライフルを構えて敵を狙い撃つ。もう彼女は楽しくて仕方がないのだろう。片目を見開いた口元は笑っている。

二台の車 ー 赤い一台にはベルモント、青い一台にはアンナ・カリーナ ー が一軒の建物の前、松の灌木の中を、反対方向から来てすれ違うかと思いきや、くるっと回って真ん中で落ち合い、身を乗り出してキスをするという、素晴らしく感動的に再現された「拳銃魔」のあのシーンは、観る者の心を激しく高揚させ、そのあまりの見事さに、動機さえ覚える。モノクロの画面上の一本の道の上でなされたあの愛おしいアクションが、ゴダールの、人を惚れ惚れさせ憎しみさえ覚えさせかねないあの色彩感覚で鮮やかに再現されたのだ、そう感じさせないはずがない。フィルムノワール的な、犯罪の中に身を投じた人間の輝かしくギラつく生、そして燃え上がる愛憎、このシーンはこれらを集約したかの如く、しかもわざとらしさやその意図さえも全く見せることなく、その時彼ら二人がそれを求めたがゆえに起こったかの如くスクリーンに現れ、それゆえに、奇跡のように燦然と輝くのだ。このシーンには、そのあまりの魅惑に眩暈がする。


港に、愛を唄う男がいる。置いて行かれたベルモントは彼に出会う。彼は3度に渡る自らの告白シーンを語る。そして気狂いピエロに「僕が気が狂っているのか⁉ 僕にお前は気が狂っているって言ってくれ!」と懇願する。3度言われて気狂いピエロは、「お前は狂ってる」とうける。気狂いピエロはもはや自分の愛を忘れてしまった。気狂いは自分なのか愛を唄う男なのか、もはやわからないのである。混乱したピエロは、ますますピエロとなってカリーナを探し求める。しかし彼にはもはや彼女を自分の方に引き戻す力がなく、銃で撃つことしかできない。彼女は大きく四肢を広げながらよろめきピエロの腕に崩れ落ちる。赤い血を顔につたらせて、彼女は息絶える。ピエロは独り残される。そして…

そして人間の世界に自ら居場所を通報し、自分の顔を青く塗り、そして…

彼は灌木の間の道を駆け下り、岩の前に座っている。そして、また、フッと上を見上げる。「勝手にしやがれ!」で死の前夜にやったように。やっぱり思い通りにならなかったことを回想するかのように。セバーグは逃避行の匂いにしか惹かれていなかった。カリーナは逃避行にあまりにも取りつかれた女だった…街を飛び出してしまった自分には、そこが終わりで始まりだった…しかしカリーナにとってはそれは始まりでしかなかった…。やっぱり思い通りにはならなかった…、いや、どっちにしたってどうにもならなかった…。

顔に赤と黄色の爆弾を巻き付け、おもむろにマッチを擦る。取り落してしまい、意図せず着火。

岬で爆発が起こった映像が流れる……………「クソッ、こんなはずじゃなかったのにッ!」

彼は道化(ピエロ)にしかなれなかった…。

そして彼はカリーナと共に、また、永遠を見つける。

…………………………………………………………………………

〔未完〕

ランボーの詩の意味は、私はまだ読んでおらず解らない。その他の引用元への言及も現時点では力及ばずできていない。そのため、こちらも完成したとは言えないので未完とさせていただく。ご容赦願う。

評価 :5/5。
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投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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