有頂天時代 / ジョージ・スティーブンス

千葉文夫は、ジンジャーとフレッドの間に「技巧以上の何かがあった。」と評した。フェリーニは「何か」を映画にした。私もそう思う。あそこには確かに「何かがあった」。

正しいミュージカル映画について、ストーリーは半ばどうでもよいと思うのは私だけだろうか。私はどうもアメリカのギャグには感覚的についてゆけない。また純真すぎるストーリーにもやはりついてゆけない。しかしながら、それでもミュージカル映画に惹かれる所以はダンスシーンの魅惑に心を奪われるからに他ならない。

そのダンスシーンで私の心を掴んで離さないのが、ジンジャーとフレッドの「何か」である。

この「有頂天時代」には、その「何か」がとらえられている。黒い燕尾服を着たアステアの動きに身を任せる黒いドレスのロジャースの滑らかな移動に、腰に回された腕に誘われるままに反った背中の曲線に、身体の周りに舞うやわらかな腕とそのうっとりするような動きに、また時折垣間見える彼女の顔に、探さずともそこにある彼らの身体に、滑らかに舞うジンジャーのドレスの波に。

少しばかり重く見える動きのジンジャーの周りをひらりと舞う軽やかなアステア。その2人の距離は、なぜか動じない。動きの質が違うように見えるにもかかわらず、2人の距離は寸分狂わず、お互いがお互いに認識している通りの場所にいるかのように2人は踊る。2人を結ぶ錦糸は、切れることがない。

後半では、ジンジャーが白のドレス、フレッドが黒の燕尾服を着て踊る。そこにも、「何か」は映っている。ひらりと大きく舞うドレスをくっきりと縁取るアステアの黒。ジンジャーを中心にその周りを軽やかに舞い、大きな白に黒を散らしてゆく。この、2人のダンサーによってしか紡ぎだされ得ない、奇跡のような白と黒のバランス感覚は、「何か」がそこにあることを静かにわれわれに告げる。

アステアがフッと振り向く仕草は恋の諦められなさを伝え、その顔を見つめ歩くジンジャーの見上げる眼差しは相手の心に希望の疑念をもった人の想いを伝える。2人がすれ違い両手をスッと上げるとき、また背中を向けて手を大きく振るとき、その仕草はわれわれに彼らの心のすれ違いを伝える。アステアがうなだれたように手をだらりとさせる時、その仕草はわれわれに彼の失恋のつらさを伝える。それでいながら、2人がともに歩くとき、ともに腰を揺らすとき、手をつなぐこともなくともに同じ動きをするとき、ともに華やかにワルツを踊るとき、彼らのはざまは彼らが互いに惹かれあっていることを雄弁に語る。しかし彼らは決して言葉を口にしない。礼儀を失せぬ気品と上品さを身に纏い、仕草と表情によってのみ語る事の無垢とつつましさに、われわれは涙する。

ここでは全ての仕草が何事かを表す。2人の人の関係の、抽象化され至上に洗練された結晶としてのミュージカルがそこにある。

評価 :5/5。
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投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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