踊る紐育(Broadway Melody of 1940) / ノーマン・タウログ

この映画は人間についての映画である。

この映画はミュージカルである前に、一つの意味を持った劇映画である。ミュージカル的な構成になってはいるものの、意味を浮かびあがらせるための論理構造が同時に底流に流れているからだ。それぞれのシーンに暗示される意味が全体で1つの意味を獲得しているのだ。その意味には、黒を基調としたミュージカルにしては暗い画面、音楽の入っていないいくつものショットなどを入口にわれわれは入りゆくことが出来る。

また、この映画はアステアが比類なき奇跡的な天才であることを示している。なぜならこの映画の劇映画としての説得力と強度は、全てアステアの顔のアップショットにかかっていると言って過言でないからである。アステアの存在の汚れき無垢、痛ましく、疼くような無垢と純真さに全てはかかっている。われわれは彼を前にしてその疼きに眼を伏せる。

ストーリーは友情を始めとする人間関係についての、そう珍しくもない類のものだ。アステアとその友人のジョージ・マーフィに到来する、いくつかの試練を物語る。成功に酔い、酒に溺れてゆくマーフィをひたすらどこまでも不純なき心で助け続けるアステア。ここでこの不純のなき純真さに説得力を与えるのが、この前に映されるアステアの顔の前述のアップショットである。

ここにエレノア・パウエルという1人の女性が絡んでくることで、事態は複雑さを増す。アステアと両想いの関係にありながら、ダンスの相手はマーフィという役だ。

アステアは相棒マーフィの楽屋を出た後舞台上にゆき、そこにおいてあるアップライトピアノの片隅にクレア(パウエルの役名)と書かれた化粧道具の丸い小箱を見つける。アップショットに切り替わり、アステアがそれを手に取りふたを開けると、フワッと中の真っ白な綿が膨らむ。このアステアの恋心を具象する素朴でやわらかな白さをとらえたショットの豊かさよ。

この後ピアノを弾き、弾きながら踊り、最後は立ち上がって踊る。音楽はアステアの実演のピアノからオーケストラのアウトのサウンドに移る。ここでの彼の踊りにわれわれは再び目を伏せる。さきほどの白い小箱のふたを閉め、自らの身体の上を転がしながら踊るその仕草の、あまりの邪気のなさ、あまりの素朴さと汚れのなさに。アステアに言葉はいらない。彼は仕草だけでものごとを表す術を知っている。

このダンスをエレノア・パウエルは脇からこっそり見ている。拍手を送り、2人でランチにゆく。その行く先の、誰もいないレストランで彼らは踊る。タップダンスでお互いに探り合い、会話し、ふれあい、親しむのである。そこに言葉は入り込む余地を得ない。大都会の中で1人の女と1人の男が出会えたことの奇跡を詠う。

上のシーンがマスクをつけて踊るシーンの伏線になっている。意味するものは同じでありながら、それをエレノア・パウエルとフレッド・アステアが出会えた奇跡についてものから万人にあてはまるものへと、抽象度と洗練度を上げているだけである。マスクは互いの文脈の見えなさを暗示し、黒い舞台はその孤独を意味する。都市での出会いの暗喩である。この時、われわれは黒く真っ暗な舞台に映った真っ白なスポットライトの円の淵から身を乗り出したダンサーの身体に沿って現れる、冷たく動じない輪郭線に激しく悲哀を見出す。これほどまでに美しく映像にあらわされた孤独の冷たさを私は未だ知らない。

そして迎える最後のダンスシーン。鏡のような床の上でやはり白いスーツを着たアステアと白いドレスを着たパウエルが踊る。意味は登場人物全員の承認である。ダメ男の役のマーフィも登場し、舞台の上でともに踊る。ほとんどナンセンスとしかなり得ないようなこの演出を成功させてしまうこの映画は、奇跡の純真さを獲得し人間の真理に迫る。われわれはこれを観て、ホークスとトリアーを憎むことが許される。この映画にいたく感動し、ある場合においては人間がこれほどまでに無垢であり得るということを信じてしまったわれわれは、彼らの下司を憎むことが出来るだろう。

時に、思い出したい。

評価 :5/5。
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投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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