ホークスの天才(紳士は金髪がお好き / ハワード・ホークス)

「事の次第」というヴィム・ヴェンターズの映画の作中で、サミュエル・フラーは次のように述べる。

「モンローは本当は左右に20人ずつ拳銃を持った男を従えたかったんだ。」

残念ながらこの役はモンローと言うよりジェーン・ラッセルが演じているが、これは誰の願望だろうか?私は男なので真相は分かりかねるが、一先ずここでは上の科白に依拠して論を進める。しかしながら、ここでジェーン・ラッセルが従えた男たちは拳銃を持っていなかったではないか、と指摘される向きもあろう。無論その通り、彼らは実際に拳銃を持っているわけではない。ただ、とここである意味ではそうでないことを述べるのだが、その内容の下品さに故に筆者自身たじろいでしまうため、プールのシーンが象徴的だと指摘し、ホークスは「観客の下司な想像を裏切るのではなく、それを出し抜いてさらに下司な展開を考え出して観客を唸らせてやろうと思っているのだ。」という一節をリヴェットの論文(Rivette, 1953.3)から引くにとどめたい。赤面した筆者の腐心の末の仄めかしであること理解たまわりたい。

少々話が逸れたが本筋に戻ろう。このような際どい演出が全体を通してなされていることは、例えば最後のミュージカルシーンを見てもわかる。なんとここではシャンデリアや街燈を女性の肉体を使って表している。血色の良い肌の身体のあちこちを黒いリボンで縛って固定しそれらの物を模している。中にはあやしいポーズのものもある。このエロティックと言うにはあまりに露骨で突飛な演出に、観客は性的な興奮と言うよりむしろ面食らい戸惑いを覚える。

スーツを着た札束というスタンスで男を見、色仕掛けで男を落とし続けるモンローだが、彼女を当惑させる相手が1人だけ登場する。誰かと言えば当時6、7歳の子役、ジョージ・ウィンスロウである。彼の初登場のシーン、モンローは彼から金を巻き上げるため色気を強調した服装でディナーに臨む。ここで問題の人物をほんの子供にすることによって、モンローの強調された胸は空振り居場所を失って宙に漂いでる。画面の空気を居心地悪そうに漂うこの色気こそが、この映画でそれを目的として表現されるエロティシズムなのである。なかなか巧い演出である。

エロティシズムと戸惑いの演出は他のシーンにもみることが出来る。例えばモンローが窓から抜けられなくなるという演出だ。奇態な格好のモンローを上半身の側からしかとらないという仄めかすにとどめた演出により、間接的にエロティシズムが表現される。この下品になりかねない見せ方を紙一重で躱した演出には毎度ニヤついてしまう。このホークスの躱し方に観客はいつも面食らわされ、笑うべきか起つべきか、はたまた真剣になるべきなのか分からない場に放り出される。

このカオスのような演出に私はホークスらしさを見、アメリカらしさを感じる。

モンキービジネスにおいてもこの演出は光る。端的な例としてはラストシーンが挙げられよう。社長の年配男性が若返りの薬を飲んで、ホースで水をかけながらモンローを追いかけまわす。人間一皮剥けば性欲の塊なのだろうか。契約関係や礼節を言い訳付きで吹き飛ばすことによってシュールに近い当惑を呼ぶ画をつくる。

この実体と契約による振る舞いのギャップの甚だしい大きさは、ホークスにおいてよく描かれるように思う。ただし、それを描いたのが彼だけだとは私は思わない。

ミュージカル映画の「有頂天時代」のラストにもやはりこれは現れる。婚約者2人がお互いに実は他に好きな人がおり、それを共に打ち明けるシーンだ。打ち明けた後2人が吹っ切れたようにいきなり笑いだすというクレイジーな演出でハッピーエンドに持ってゆくのだが、ここにも本性と日常態度のギャップの甚だしい大きさを見ずにはいられない。婚約という契約関係と、他に好きな人がいるという実体のギャップがあまりに大きいがゆえに爆発したように笑いだすのである。ここでドアからあの女優が登場しなければ、2人はおつむがおかしくなったようにしか見えないだろう。

このようなギャップを表したシーンはアメリカの映画の中でよくみられるもののように思う。

そしてこれを描いた人物は時代と空間を超えてもう1人いるように思う。ラース・フォン・トリアーである。彼の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という作品で目立つのは契約関係が取り払われたとき突如として露わになる実体の暴力性である。ビョークら演じる親子に住む家を提供している夫妻、女性の看守などである。夫妻の軽い気持ちの契約による行動は、その軽さゆえに些細なきっかけで一瞬にして吹き飛び、自己中心的な欲に突き動かされた夫の行動がビョークを陥れる。女性看守の契約による行動の貫徹が、暴力となってビョークに降りかかる。最下層まで掘り下げられたときに露わになると同時に爆発的なダイナミズムを生む被写体の実体とでもいうものを、彼らは撮っているのだ。この構造は、「マンダレイ」にも「ヨーロッパ」にもみいだすことができる。

この「実体」を気品の限界と緊張させながら仄めかすのがホークスであり、歯に絹着せず無遠慮に暴露するのがトリアーである。彼らのえげつない下司は、どちらもこの上ない出来栄えの、素晴らしい喜劇と悍ましい皮肉となって表出される。

私はこの下司に毎度ニヤつくのを禁じ得ないが、どちらが好きかと問われれば迷いなくホークスと答えたい。トリアーがヘタウマなら、ホークスはまごうことなき気品ある天才である。画面に下司と気品とを共存させ、その狭間に悦楽を生み出した。ホークスの天才、ホークス映画の快楽ここにあり。

評価 :5/5。
にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ

Blog Circle’s ブロトピ

投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう