拳銃魔 / ジョセフ・H・リュイス

走る、走る、走る!拳銃強盗の連続で生を紡ぐ、銃で世界を手に入れるビッグな人生。それでも銃では決して手に入らないものが彼らの世界にはヒリヒリと存在する。それはペギー・カミングスにとってのジョン・ドール、ドールにとってのカミングスである。

共に生きる存在として、互いは銃では決して手に入らない。その焼き付くようなジレンマと、自分たちを弾き出した社会との境界線で擦った焼けるような肌の痛みが、2人を強烈に、激しく、死すら切り裂けないほどに結びつける。彼らの間の境界線は、圧し潰そうとでもするかのように痛いほど擦り合わされた肌の狭間の線の如く、熱を持っている。

拳銃強盗へと身を転することを決めた晩のホテルのシーン、カミングスは白いバスローブに身をくるみ、ベットに身を放る。彼女の真っ白な肌が内側で燃えているのがまざまざと伝わってくる。これを前に抗えるものなどいないだろう。彼女の顔のアップショットの左上から、取り付かれたかのような表情のドールが現れ、画がぼやけてゆくのと同時に彼女の唇に自らのそれを重ねる。ピントをずらされ潤んだスクリーンの向こうに彼らの姿は消えゆく。われわれ昼の人々の知らない彼らの世界は慎ましく隠される。彼らは夜の人々なのだ。

その彼らの生きるのは、時速100キロの時空である。そこに燃ゆる生とその狭間の愛に観る者は魅せられる。その激烈な生を驀進する彼らの燦然とした輝きに目を奪われ、そこから目を引き剥がすことは映画が終わるまで決してできないであろう。

この映画は短期間・低予算で撮られたためロケーションが多くストーリーも単純だが、後のいくつもの映画の萌芽がその内に見える気がしてならない。例えば、この10年後と15年後にそれぞれ撮られた、「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」の躍動を胎動していることは否定しがたいだろう。「勝手にしやがれ」につながる画面からわれわれに振動として伝わってくるアクション、「気狂いピエロ」のみならずその他の映画にも通ずるファム・ファタールの妖しさと相手を惹きつけ決して放さない強烈な魅惑、そしてアウト・ローの輝きと燃ゆる生、焼け付く愛。これらのものが未分化の状態で2人の拳銃魔を貫き、画面の中をのたくっている。

こんなシーンがある。一度バラバラに分かれることを決めたものの、それが不可能であることに助手席の空白を見て彼らは気づく。反対方向へと走り出した車を一度止めて、ジョン・ドールはカミングスの車へと駆け寄り、乗り込んでキスして、車を発進させる。

あぁ、なんて素敵なんだろう。

評価 :5/5。
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投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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