瞳孔の中 / シギズムント・クルジジャノフスキィ

恋愛を解剖し理論化する6号の話を前に、12号は眠気を覚える。言葉は物事を語るものでありながら、物事を語れないものでもある。恋愛を語ることは出来ないのだ。恋愛の一部についてさえ、ここで明確に言語化されたことは、脳に響いた「鋭い痛み」しかない。

「鋭い痛み」は、彼の瞳孔人が彼の瞳に戻ってきたときに彼の脳に響く。この瞳孔人とは誰なのだろうか。

瞳孔の奥、脳の中にいた瞳孔人たちの物語を聞いてみよう。彼らが物語る物語は必ず彼女がそれぞれ彼に惚れた瞬間で終わっている。その瞬間に、瞳孔人たちは彼の瞳孔から彼女の瞳孔へ飛び移るからである。つまり瞳孔人とは、彼女が彼に惚れた時に彼女が見た彼なのだ。

瞳孔人が主人の瞳孔に帰って来るとはつまり、主人にとっては、彼女が惚れた少し前の、今の自分とはホンノチョット違う自分を再び目の当たりにするということだ。この場面の、その行為と「ある目を奪う魅力の体系的歴史大全」が「鋭い痛みとなって脳に響いた」という表現は、なにか刺さるものを持っている ― 彼女が惚れた自分への、郷愁と、記憶と裏切りの苦味と。

闇は、薄れゆく記憶を生きながらえさせる空間である。

太陽の上った昼間とは、相手の瞳孔が見える時間、つまり、裏切りの空間である。

この小説は、明確にどっちに肩を入れるというわけでもなく、ただ疑問符を投げかけて幕を閉じる。

もう一度瞳孔人の話に耳を傾けてみよう。今度は6号の話だ。彼は12号に向けて、自らの恋愛理論を語る。人の愛とは一体何か。答えて曰く、「互いに互いを裏切りあう浮気の連続なのです。」

意識の中の相手の像と恋愛に伴う諸感情、これらが互いを導くか否かによる3つの状態 ― 1)感情→像、2)像→感情、3)感情⇄像 ― それぞれの恋愛の帰結との関係を説明した彼の理論では、3)のみが真の人の愛と彼は説く。この3)の状態とは、一瞬前の相手を裏切る ― 人間を流動的に変化し続けるものと捉えることで機会①の相手は次の機会②には機会①とはホンノチョット違う人間になっていると考え、自分の側から見れば、機会②には機会①のときの相手を裏切ってホンノチョット変わった機会②のときの相手を愛する ― この連綿と続く裏切りの営みが愛なのだと彼は解くのである。

この理論が紹介された後に続く短い物語の素描や忘却についての考察が書かれている。上の恋愛理論において、裏切りとは忘却の因果である。

この小説は、忘れられることの哀感を描く。初めて相手が惚れたときの自分の像として相手の瞳孔奥深くに留まるも、徐々に忘れられ存在が希薄になってゆく…。恋の始まりという刹那と甘さ、その「恋の始まり」の一瞬間という存在として生きることの苦味。女主人の夢に出る、思い出されるという時間を生きることで、「恋の始まり」は記憶として存在し続ける希望を感じる。そして再びそのときの自分に邂逅するという「恋の始まり」の主人の不幸、それに伴う郷愁とぬくもり…。

クルジジャノフスキィは、必要なだけの量の言葉でありながら、一篇の中で多くの物語や理論に触れる。しかしながら、その多くによって、彼は全く逆のこと、言葉で語ることのできないことを読者に語りかける。彼は常に、「なにも語らずにすべてを語る」。フィクションであり、たかが小説であるのに、これは「たかが」たり得ない。物語を物語る言葉たちは、小説の頁の上で紙に滲み、その滲みはあなたの瞳孔に沁み入る。それは郷愁となり、ぬくもりとなり、瞳孔の奥へ。気づけばクルジジャノフスキィのぬくもりと郷愁がそこにある。そして一瞬の後、アッと思いながらも瞳孔から文章を振り落とせずにいると、あなたは既に思い出の触感に包まれている。そのとき、記憶への郷愁と忘却による刹那の狭間にあなたはいる。

投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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