迷宮譚 / 寺山修司

中央に縦に一筋、白い、長い長方形が見える。他の部分はみな濃い緑色になっている。この白い長方形の狭い底辺がわずかに揺れながら上に登ってゆき面積が小さくなってゆく。と、照度が落とされ、その映像が2人の男が片開きの扉を担いでこちらに向かってくる様であったことがここで明かされる。長方形の底辺はその扉の上辺だった。

顔を白塗りにし工夫のエプロンを着た2人は、照度を極端に上げられ白い無に溶けゆく道路の奥へと消えてゆく。

カットが入り、また2人は扉を担いで現れる。時折彼らは扉を置き、開けてみる。するとその向こうにはこちらとは全く違う世界が見える。その扉は、あらゆる場所に他の場所への入り口をつくりだし、そこに境界線を敷く。

現実だと思っている世界には、様々な“もの”や風景が存在する。それらは、照度や色調を変えれば全く違う世界を映し出す。その世界を見るレンズを変えれば、見える世界は一変する。そんな世界へのはどこにでも現れ得るし、その向こうはどんなものでもあり得る。そのは以前見た何か“もの”かもしれない。風景かもしれない。はたまた初めて見るものかもしれない。眼前の景色は所詮仮定である。


いくつかのショットの後、少女が川の桟橋の上で手毬をついているショットが映される。川べりの草むらに横たわる扉を見つけ、起こしてその扉を開ける。向こう側には何かの記念写真。そこに一組の欧州式に正装した男女が歩いてくる。彼らもまた扉を開けるが、向こう側は手前と同じ景色に変わっている。男だけが扉の木枠をまたぐ。女はしばらく後、扉を閉めて中央に「✖」と書き込み、こちらを見てニヤニヤ笑う。

再びカット。前のシーンと同じ女が、両側に家が密集した狭い道をこちらに歩いてくる。その脇の家の一つの扉を開けようとする。しかし、開かない。家の中からは楽しげな音楽が聞こえてくる。何度か試みたのち、女は諦める。ここで、女の顔のアップが入る。

スクリーンの上の左角の方をやや斜めに向いたその顔は真っ白に塗られ、強い光をあてられている。真っ白な中に、唇と眼がクッキリと現れ、鼻の盛り上がりも見て取れる。瞳は斜め上を向き、何かを思いやるかのような表情を浮かべている。

数秒の上のショットの後、こちら向きに立ち、やや下にうつむいた女が例の扉にもたれ立つショットに切り替わる。顔から首、襟の間にのぞく肌が、ざらざらした質感の映像にリアルに映し出される。手触りまでも映しだしたかに思えるショット。女は何か悲しげである。もの思わし気にうつむき、このラストショットの最後まで顔を上げない。カメラはだんだんと斜め上に後ずさり、その場所が工夫の消えた道路であることが明らかになる。道路の脇や奥から奇天烈な格好をした者たちが現れ、「だるまさんが転んだ」で鬼に近寄るときのような足取りで道路を手前に向かって歩いてくる。女の様子は変わらない。

彼女は自らの記憶を扉の向こうに閉じ込めてしまった。もう入ろうとしても入れない。彼女の記憶は中で混じり合い、奇妙な形で彼女に囁きかける。鬼にコッソリ近づいていくように、そ~っと忍び寄る。先ほどの女の顔の2度のアップは、記憶を閉じ込め覗けなくなった人間の、遠くに記憶を置いてきてしまった人間の、しかし未だそれらに後ろ髪ひかれる人間の、寂しさと孤独を捉えているのである。

だいせんじがけだらなよさ

評価 :5/5。
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投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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