物語の外、その深淵(事の次第 / ヴィム・ヴェンダース)

ロー・アングルのロング・ショット。異様にコントラストのついた岩々が奥まで続き、小高い砂丘が低く画面を横切っている。その上とスクリーンの上辺の間には灰色の、動かない空がある。

小高い丘から人影が。どうやら首にはスカスカの布のマフラーのようなものを巻いている。強い風にそれをなびかせながら、画面の奥を歩きゆく。

ブヨブヨした音楽も入る。ベースのフレーズがシンセの上に乗っけてある。

アップ・ショット。例の空を背景にした、男と思しき人物の肩から上が映る。顔にはシルバーの奇妙な形のサングラスをかけ、丸い医療用のようなマスクが口を覆っていて、表情が全く見えない。作業服のような長袖、長ズボンを身に着け、手には手袋までつけている。男が振り向くとカットは入らずカメラも続き、丘のすぐ近くに何人かの人物が見える。一人は担架に乗せられ、ほかの二人は寄り添いあっている。男が合流するとまた歩き出す。次のショットでは日がだいぶ落ち、画面が暗くなっている。浜辺に沿って歩きながら、砂浜についた足跡が全て海に向かっているのを発見する。

その後一行は洞窟で一夜を明かし、担架に乗っていた子供はもう助からないと判断され、殺される。再び出発し、辿り着いた海を一望する建物の屋上へ。

ここでそれが映画であったことが明かされる。背景が描かれたシート、人物に向いたカメラ、普通の服装の人物。「生存者」の撮影現場である。休憩の後、監督はもうワンシーン撮ることを提案するが、サミュエル・フラーにもうフィルムがないことを告げられる。プロデューサー・ゴードンが蒸発したので金もない。“物語”は中断した。物語の中の人物たちは、その衣装を脱ぎ、マスクを外し、私服にもどる。「物語は物語の中にある。」「人生は物語を必要としない。」「人生は物語を生み出したり、転化することを必要としない。」と、酒の入った監督は夕食の席で述べる。彼らは「物語」から追い出され、「人生」に投げ戻された。しかしそこは故郷アメリカではない。ロケ地・リスボンである。波の打ち寄せる音だけが、絶えず聞こえる。

空は動かない。泊まっている建物も、その周りの森も、その奥の街もまた灰色で、動かない。止まっている。「生存者」の如く、αヴィルの如く。


その夜は皆思い思いに過ごす。ヴァイオリンを弾いたり、何か書き留めたり、風呂でラジオを聞いたり、セックスしたり。

ベッドの上で女は男に言う。「繰り返しに感じられるわ」「私たち、マンネリよ。」

監督は娘たちの脇の床で眠りにつく。夜中にふと目が覚めると、その男の手は娘のベッドへ向かう。頬に始まり額と髪、首、脚と順にその白い手は体に沿ってなでる。モノクロの画面を右から左へゆっくりと、しかししっかりと、慈しむように、そこにいることを確かめるかのように。


翌日、サミュエル・フラーに訃報が届く。妻が亡くなった。彼は空港へ向かう。“Texas”と書かれた酒場に入り、他の客にも大声で話しかけながら酒をあおる。テキサスの酒場にいるかの如く。しかしそこは、映画のロケ地の“Texas”。彼らは未だ現実には戻りきれていない。SFじみた空、森、街、空間。先晩監督はこうも言った。「全てはフィクションである」。それぞれの人生に映画「生存者」が侵入し、人生と物語が交錯する。

その夜、別の男は言う。「僕は君を愛していた...」。女はあなたに夢中だと言う。彼らは交わるが、一歩手前でカットが入る。

監督が寝ていると、隣の部屋に松の木の幹が、ガラスの割れるけたたましい音と共に唐突に飛び込んでくる。起こされた彼はフラフラと立ち上がり、歩み寄って割れたガラスの外へ。海が見える。波立ち、絶えず砕けてはまた押し寄せてくる。松の幹は「捜索者」がいる海から飛んできた。戻ってくるとその松の傍らにかがみ、小説「捜索者」を手に取る。その一節に、彼は不吉な予感をその松の木を見る度に思い出す、とある。それを見て、彼は笑う。「生存者」のもとに松の幹が放り込まれ、それら物事の解釈は西部劇小説「捜索者」に描かれている。後半にはロスの映画館でフォードの「捜索者」が上映されている。映画は彼らにシグナルを送っている。

再び朝。空はまだ動かない。監督は、今度はロスに赴くと告げ、ゴードンを探しに乗り込んでゆく。あちこちで関係者に当たるも、誰も彼の所在を知らない。

その途中、車でつけられかけるもこれをかわす。画面左を縦にはしる道路とその左側の建物群、右手のバスの整備場とマクドナルド、そしてそのだだっ広い駐車場をすべて収める鳥瞰的な超ロング・ショット。駐車場を出た直後にこれに切り替わる。監督の車が左の道路に出て、バスの整備場の奥で右折、その陰に入る。尾行車が曲がったタイミングでバスの整備場の裏手に曲がり、もう一度道路に出るとマクドナルドの影へ。子供が公園でやるような、悪戯っぽい追いかけっこ。車はその優雅な加速度に従って滑らかにゆっくりすすむ。相手の鼻面がのぞく直前にスッと曲がる。そしてS字に走った後、尾行者は左へ、監督は右へ。


ドライブスルーで偶然ゴードンと出会う。“物語”が動き始めた。ゴードンのバスに乗り、朝まで話し合う。監督は言う。「物語が入ると生命が逃げていく」「物語は浮かぶが、生命がない」

夜が明ける。

別れの時。

止めっぱなしの車の前で止まり、ゴードン、監督がバスを降りる。抱き合い、別れを惜しんでいると、突如銃声が。ゴードンの背に血の跡が。監督は手持ちカメラを拳銃のように構え、ゆっくりとぐるりと周囲を撮る。再び銃声。今度は彼の腹に。彼は崩れ落ちる。倒れた彼のカメラの映像に切り替わり、スクリーンの右端を上から下に走る黒い車を映し、映画は終わる。

「物語が入ると生命が逃げていく」「物語は浮かぶが、生命がない」

最後のシーン、「捜索者」「生存者」は邂逅するかに思われた。監督は“物語”の中で“映画”を撮ろうとした。“物語”の中に“生命”を宿そうとした。この映画を撮るヴェンダース自身のように。これが事の次第だ。

評価 :5/5。
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投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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