デルス・ウザーラ / 黒澤明

悪い映画ではなかったと私は思うが但し、「但し」と言った後にいろいろ言いたくなる映画でもあり、それらを正直に言うと、まず表面的な点では演出過多なのが否めない点、諧謔でも、観客として非常に心苦しく思うのだが、苦笑いを浮かべるのが精いっぱいであったという点、つまりより具体的に言うならば、風の話をすれば風が、しかも白いスモークまで伴って吹いてくる点、雷が落ちれば赤く光ったり青く光ったりとお化け屋敷じゃあるまいしと突っ込みたくなる点、またこれは指摘されてはじめて気づいた点で、小屋の中で魚を女性が持ってきたときの男たちの態度が笑いを誘うつもりなのだそうだが、果たしてこれは自分が鈍感なのか演出が悪いのか判然としない点だと言え、「蜘蛛の巣城」のごとく本当に幽霊が出てきたりはしない点はよいとここで私は言いたくても、これは黒澤のセンスというよりはロシアの大地の過酷さがそれを許さなかったというべきではなかろうかという感がぬぐい切れず、事実私はそうだと思うしさすればまたっくこれはフォローたり得ないということに気づかざるを得ない点であると言え、ここまで考えると、前半の紅葉の森のシーンや草を刈り集めるシーンなど悪しからぬシーンもこのせいではなかろうかという疑義がここで起こり、またその他の悪い点、つまりこのテーマのこの自然の中で撮っているのに音楽が所々で入っていたり、しかもそれがあまりにあからさまであり、どのように監督が誘導したいのかという作為が生々しく意識させられ映像を見る邪魔になってならないことや、映画が長いためか緊張を生むことに失敗している点などなどの諸事を私の意識上に登らせることを誘発してしまい、更にこれが私の舌を捲し立て、筋立てがドストレートな点は私の読んだ本、具体的にはレールモントフの「現代の英雄」を顧みれば不自然ではなく、こんなものなのだろうと納得し、この点を良い点として挙げようと思わせつつも、しかしまたしてもこれは彼がマイナスになる事を積極的にはしていない点を挙げるのであるから結局フォローたり得ないことに気づいてしまう点もよいとは言えず、加えて所々に入っているやけに凝った構図の画面のことを更に思い出してしまうにあたっては、もはやいったい何がよかったのかという自問自答がここで引き起こされるのであるが、全体としては、つまり彼の積極的な演出がより弱いシーンについては悪くなかったという結論をここで繰り返すことになるし、前に2度指摘した通りこれがフォローになっていない点はもはや見逃すという策を採るしかなかろうという結論に達しざるを得ないので、画面についての話はここまでとして切り上げプロットに話を移すと、ここでもやはり、彼が惹かれたという生き方は、宮台真司氏や藤井聡氏の指摘すること、藤井氏の表現を借りれば日常的な「活物同期」のそれであり、これはセンスからいっていたって平凡で普通のものであることを指摘し、またフランスにおいてもロシアにおいてもよくありそうなものに私には思えることは言わねばならず、加えてその見せ方のセンスもなおよいとは言えず、これはやはり彼が生真面目なセンスしか持ち合わせていなかったという結論を私の前に突きつけるのであるが、私に以上の約1300字を吐き出しつくすまでエネルギーを供給し続け得たという、この画面に映された明々白々の事実が、この映画がそれだけの強度を有していたという証拠となり、フォローとなって頂ければ本意ではある。

評価 :1/5。
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投稿者: 早春

音楽を動力に、書物を枕に、映画を夢に見て生きる生意気な青二才。現在19歳。一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき。さる荒野にまだそこらの向日葵はあらねども、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、方片なき荒野の早春の日ものたりのたりかな。年経ればいま過ぐる日々をいかが思ゑむ

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